智辯和歌山野球部の高嶋仁監督勇退!病気が原因か

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あの伝説の高嶋仁監督智弁和歌山のユニホームを脱ぐ。

寂しさしかない。ずっと観ていたいと熱狂さす智辯和歌山打線

ジョックロックが鳴り響くと、どんなに負けていても逆転する。

そんな仁王立ちする高嶋仁監督についてまとめました。

1.智辯和歌山甲子園成績

高嶋仁監督甲子園での成績がすごい!

春甲子園 21勝10敗

夏甲子園 35勝18敗

優勝3回

2.智辯和歌山の練習方法と名言集

あの強力打線の秘訣は練習にあった。

バッティングマシンで150キロ以上のスピードボールで練習する。

入学当初は全く打てないが気づけば当たるようになるという。

『打てるまで練習。1週間かかろうが打てるまで打てばええやん』

さらにノックでは、つねに厳しいところに打つ

ぎりぎり捕れるか捕れないところに打ち

夏の甲子園予選和歌山大会では試合が終わっても、絶対練習する。

あの名門、明徳義塾馬淵史郎監督ですら選手の疲労を考慮し調整に入るという。

2-1.なぜ高嶋監督は練習するのか?

『試合後の練習で追い込めなかったら甲子園でも勝てない。

さらに甲子園が決まったら、宿舎から移動し練習するが時間制限があり2時間なのだ。

すなわち甲子園の試合前日がまで調整となる。

そのときは選手の体は軽くなり甲子園で爆発することができる。』

さらに予選で6回、甲子園で6回勝たなければ優勝できない

そのためには炎天下でも戦える体作りが必須になるみたいだ。予選の和歌山大会の決勝を想定し逆算し投手起用する。

予選の決勝で負けても、1回戦で負けても甲子園に行かなければ意味がない。

選手にあの甲子園見せてやりたい一心で指導しているという。

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3.高嶋監督の生い立ち

長崎県五島列島出身

その当時、五島列島では柔道が盛んな地域で小学時代はソフトボール

中学時代はエースとして県大会で優勝した。

その当時の思いは『甲子園に行ってみたくなった。』

それで名門私立海星高校へ進学、2年、3年生ときに甲子園に出場した。

あの大観衆のなか、入場行進に感動し次は監督(指導者)として甲子園に戻ってきたいと決心し

1年間浪人し日本体育大学へ進学した。そのときのエピソードにまた感動する。

『その当時は就職ばかりで大学へ行けるのは金持ちばかり』

『親には迷惑をかくたくない。』

『だから1年間、浪人しバイトしながらお金を貯めた。』

さらに大学に進学して帰省したのは、わずか2回教育実習、叔母の葬儀のみ

あとは全部バイトに明け暮れたという。その当時の初任給は3万円だったが

高嶋監督はバイトで30万円も稼いでいたという。

そんな過酷な状態だったが、深夜、素振りをするなど野球も妥協することなく頑張った結果

1年生秋から3番センターでレギュラーを獲得、その大学時代の経験が今に生きてるという。

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4.野村克也も絶賛

高嶋監督は野村克也氏も絶賛するほどの監督

しかし2008年には体罰をきっかけに謹慎処分を受け辞任

四国八十八か所を巡拝した際は今は亡き上甲正則馬淵史郎監督からも激励されたという。

その後、智弁和歌山監督へ復帰し今に至る。

そして次期監督は喜多 隆志とは一体どうな人なのだろうか?

智辯和歌山1996年の春の準優勝、翌年夏の甲子園優勝メンバーでその後、慶応義塾へ進学し六大学時代は打率535といまだに破られていない記録だ。

その後、プロ野球ロッテへ入団し2試合連続のサヨナラ打を放ち、鮮烈なデビューをする。

その時の映像↓↓↓

2006年に戦力外通告を受け2011年に智辯和歌山高校のコーチとして就任する。高嶋魂の後継者として今後期待されることは間違いない。

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